カスパー・ハウザーはドイツのバイエルン州のニュルンベルク(首都)で発見された子供です。
1828年5月26日の夜8時頃にボロボロな身なりで徘徊していたため、近所の人が警察に通報し対応にあたりました。
警官に発見された当時は十分に歩くことも困難な状態で、どんな質問にたいしても同じ言葉を繰り返していたため、野蛮人か詐欺師ではないかと疑われましたが、筆談を試みると自分の名前(kaspar Hauser)を記載(それ以上はなにも記載しませんでした)しました。
また、所持していた手紙は「ニュルンベルク駐屯第6軽騎兵隊第4中隊のフリードリヒ・フォン・ヴェッセニヒ大尉宛」たったため、身元引受人の検討も試みられました。
手紙の内容
カスパーが保護された際に持っていた手紙の内容は
- 少年の名前はカスパー
- 1812年4月30日に生まれた
- 1812年10月7日に私の元へ来た
- 1812年以来一度も外にだしておらず世間を知らない
- 私と同じ程度には読み書きはできる
- 他の子も養っているため面倒がみきれない
- 母親は行方知れず
- 父親は第6騎兵隊に所属していたが既に亡くなっている
- 「何になりたいか?」に対して「父のような騎兵になりたい」と答えたため「ニュルンベルク駐屯第6軽騎兵隊第4中隊のフリードリヒ・フォン・ヴェッセニヒ大尉宛」の手紙とした
- 「騎兵にしてほしい、無理なら追い出すなり殺してほしい」
手紙にはこのような趣旨の内容が書かれていましたが、誤字や文法間違えが多かったようです。
内容を信じるならばカスパーは当時16歳で発見され保護されたことになります。
カスパーの当時の様子
カスパーは簡単な言葉は理解できたという証言と、何を質問しても理解できていないようだったという記録があります。
手紙に「私と同程度に読み書きができる」という内容が書かれていたため、言語が違う可能性もあります。
しかし、詐欺師ではないのかという説もあり、真偽はわかりません。
当時のカスパーは疲弊している様子だったため飲食物を提供しましたがパンと水以外は嫌悪感をしめし、無理に食べさせると吐いてしまいました。
カスパーは自分がなにものであるかも故郷も知らない状態でした。
常識がなくロウソクの火を掴もうとして火傷をしたり、鏡に映る自分を自分だと認識できませんでした。
その反面、記憶力に優れ感覚器官が暗所で生活に適するように発達していたようです。
鋭敏な感覚器官
カスパーは育った環境(暗闇でパンと水を与えられて育った)の影響によるものと予想される特異な能力を持っており、その能力は文明社会で暮らす人よりも遥かに優れていました。
- 味覚
水にコーヒーを一滴混ぜるだけでも飲めません(嫌いなよう)でした。 - 嗅覚
パンの内部に入れた他の食べ物に匂いだけで気づきました。 - 聴覚
部屋の隅にいる蜘蛛が動いたのがわかりました。 - 視覚
暗闇の中でも本を読んだり色を識別する事ができました。 - 触覚
目視する事なく鉄と真鍮の違いがわかりました。
このような鋭敏な感覚は一般的な生活に慣れるにつれて徐々に失われていきました。
カスパーの過去
カスパーは長期間にわたり暗所に閉じ込められて(奥行2m×幅1m高さ1.5m程度の部屋)社会から分断されて育ったため、孤立児や野生児(野生人)に分類されます。
毎朝カスパーが起きる前にはパンと水が準備されていました。
用意された水が苦い時が稀にあり、その水を飲むと良く眠れて目覚めると身なりや部屋が綺麗に整えられていました。
その暗い部屋の中には二頭の木馬があり、その木馬で遊んでいる時に大きな音を立てすぎて一度だけ怒られた事がある以外は怒られた事すらなかったそうです。
カスパーは長い間社会と分断されていましたが、解放されるまで世話をしている人以外を見た事もありませんでした。
更に、その世話をしている人は顔を見られないように注意しており、人の顔をまともに見た事はありません。
解放される前に暗所から出されて指導(ペンの使い方歩き方、名前の綴り、「騎兵になりたい」と言う)を受けたましたが、その際にも顔を見せる事はありませんでした。
保護されてから
カスパーは保護されてから、手紙の宛先である「ニュルンベルク駐屯第6軽騎兵隊第4中隊のフリードリヒ・フォン・ヴェッセニヒ大尉」に心あたりがあるのか確認をしましたが、保護者となってはくれませんでした。
そのため、哲学者のフリードマン・ドーマーが保護者となりました。
カスパーは教育を受けて学校にも通うようになり、徐々に常識を身に着けて食事も一般的なものになっていきました。
しかし、言葉を話せるようになり自らの過去を語りだした頃暗殺されてしまいました。
暗殺されるまでは何回も怪我を負っていました。
カスパーが暗殺されるまで
- 1829年10月17日に家の地下室で額から出血していたのを発見されました。
2日間意識不明となりました。
カスパーはニュルンベルクにつれて来た人が犯人と証言しています。 - 1830年4月3日に銃で撃たれました。
事故(本を取ろうとして暴発してしまった)と証言しています。
当時のカスパーはビバーバッハ家との仲が良くなかった(カスパーが嘘をつくらしい)ようです。 - スタンホープ卿が面倒を見る事になりました。
カスパーはハンガリー語を覚えており、母親はメイテニー伯爵夫人と主張したため、実際にハンガリーへ行きましたが笑われて帰ってきてしまいました。 - 1832年マイヤーが面倒を見る事になりましたが、やはりハウザーが嘘をつくようで関係が悪化してしまいました。
- 1833年5月29日、様子を見に来ていたフォイエルバッハがなくなると関係がさらに悪化してしまいます。
- 1833年12月9日にはマイヤーと激しく口論
- 1833年12月14日、ハウザーは見知らぬ男に左胸に深い傷を負わされたと証言しました。
現場へ行くと鏡文字で「ハウザーは犯人がどこにいて、どこからきたのかを正確に伝える事ができるだろう、手間を省くために教える、バイエルン国境の~ 名前はMLO」という文章が残されていました。
この文字は手紙の筆跡と同様だと考えられています。 - 1833年12月17日、14日に負った深い傷によってカスパーは死亡してしまいましたが、法医学的には自殺でも他殺でもあり得る外傷だと考えられています。
カスパーの最後の言葉は「私じゃない」だったといわれています。
カスパーが死亡した事で、殺人犯逮捕のために情報提供者に賞金を出すことになったにも関わらず有力な情報は得られませんでした。
しかし、2年後にカスパーが刺されたと思われる現場付近で、カスパーの刺し傷と一致する刃渡り14センチ、全長30センチ程度のダマスカス刀が発見されましたが進展はありませんでした。
カスパーについての憶測
カスパーについては現在でも謎が多く様々な憶測があります。
特に有名なのが、
- カスパーが生きていた時から王族(カスパーの顔が王族に顔が似ている)や貴族の隠し子(身分の高い血統)ではないのかという噂があり、彼が有名になり過去を語る事で都合がよくない人によって暗殺されたとする説
- 全て偽りの自作自演であり、世紀の天才詐欺師であるという説
などが主流です。
DNA検査など、血縁者を特定するために何回か検査をしました。
バーデン大公妃のステファニー・ド・ボアルネ(ナポレオン・ボナパルトの幼女)とカスパーのDNAは大部分で一致(親子の可能性がある)した事もありますが、DNA検査の調査対象の毛髪などがカスパーのものであるのかについては物議が交わされています。
2002年に行われたDNA鑑定では出身を特定する事はできませんでしたが、カスパーのDNAであるか怪しい点や、バーデン家が調査の依頼を断り続けているなどの不明点が多いため真相はわかりません。
しかし、フォイエルバッハはハウザーがステファニーの子供だと確信していました。
また、カールとステファニーの間にはカスパーの誕生と同様の時期に出産してすぐに死亡してしまったとされる男児(プフォルツハイムの城内協会に埋葬されているとしている)もいます。
カールとステファニーの間に子供が2人生まれたましたがどちらも短命であったため、相続の問題で幽閉され最後には暗殺されてしまったという説がありますが、調査を進める事もできないため真偽は不明です。
まとめ
カスパーのように文明社会の中にいたにも関わらず、社会とは分断されて育った事もは稀ですが他にも存在します。
有名なのはジニー(ジェニー)・ワイリーで、彼女は親の元で幼少期を過ごしましたが、彼女の親はジニーを拘束し十分な教育を受けさせることもありませんでした。
そのため、彼女は生涯にわたり苦労しました。
カスパーやジニーののように幼少期に十分な教育を受ける事が出来ずに育った子供は野生児(野生人)に分類されます。
一般的な野生児(野生人)のイメージはアヴァロンの野生児のような文明社会とは離れた自然環境で育った子供の印象を持つ人が多いと思いますが、幼少期に十分な教育を受ける事が出来なかったカスパーやジニーも野生児(野生人)に分類されます。
カスパーの場合は更に稀な例で、何者かによって暗殺されるという事件に発展してしまい、現在でもこの事件は未解決のままです。